10月14日(月祝)、当山にて「第4回みんなみかた会議~3.11によって岡山へ避難・移住をされた方の話を聞いてみんなで話し合う会~」が開催されました。
今回お話くださった方は、夏休みなどに福島の子どもたちを岡山へ招待する「保養プログラム」や、岡山県産の安心野菜を福島や関東などに送るプロジェクトを行う「せとうち交流プロジェクト」の方と、宮城県南三陸町で3.11津波被害に遭い、現在は岡山で暮らす方のお二人。
岡山には現在1000名を超える方々(西日本では大阪に次いで2番目の多さ)が避難や移住をされておりますが、その方々自身が立ち上がり、3.11以降様々な苦しみを抱いておられる人々の支援を行われています。
その内の一つ、「せとうち交流プロジェクト」https://sites.google.com/site/seto80meet/は、瀬戸内市と共同し、2012年、2013年夏に、瀬戸内市内にて福島の子供たち対象の保養プログラムを開催されました。福島に住む子どもたちは、放射能汚染の広がりによって屋外ではなかなか遊ぶことができず、ましてや海水浴は非常に高い危険にさらされますが、この企画によって岡山の海で思いっきり遊んだり、山に入って昆虫採集をしたり、とても楽しい思い出を作ることができたそうです。
お話くださった方は、「放射能に対する考え方は人それぞれ違うが、この活動を通して少しでも汚染地域で子どもが暮らすという問題を考えてもらえたら・・・」、と語られました。
2人目の方は、住んでいた南三陸町で3.11津波被害に遭い、家族で岡山へ引っ越してこられた方で、4人の子どものお母さん(3.11のときは3人の母)。
3.11当日は、プレハブのような建物の2階にあったピアノ教室で子ども2人と地震に遭遇。「ああ、ここで死ぬのかぁ・・・」と思ったぐらいの揺れだったそうです。なんとか地震はおさまりましたが、小学校からピアノ教室に来るはずのもう一人の子が来ない。もしかしたら来る途中で地震に遭ったのかも・・・、と不安にかられながら急いで車を走らせますが、道路がすでに大渋滞。なんとか小学校に着きその子に会えたときは本当にうれしかったそうです。ご主人の安否がわからないまま、その夜は避難所となっていた小学校で雑巾を敷き、新聞紙一枚をかけ就寝。翌日になって、ご主人にも会え、ようやく安堵したそうです。(しかし、御義母様が、「津波が来ても3階なら大丈夫」と言われていた病院に入院中、その3階で津波にのみ込まれました。ご遺体は未だに戻ってきておられないそうです・・・。)
もし地震の時間が少しでも違っていたら・・・、あるいはお子さんが小学校をもう少し早く出発していたら・・・、会えていなかったかもしれない・・・。
ご友人の男性は、妊娠5ヶ月の奥様と津波にのまれ、握っていた手が離れてしまった・・・。結婚5年目にしてようやく子宝に恵まれたのに・・・、奥様とお子様をなくされ「自分が殺してしまった」と悔やんでおられる、と・・・。
2011年3月11日の地震が起きてから津波が来るまでの時間。それは生と死が紙一重だった時間。
残された私たちは、亡くなられた人々の無念たる思いにどのように報いることができるか。
少なくとも、あの時間に学び、これからの防災に活かすことを怠ってはいけない。
岡山は災害が少ないがゆえに防災意識も低い。それは幸せなことでもありますが、危険でもあります。あらためて、3.11の津波被害を体験された方の生の声を聞くことがいかに大切なことであるか、深く考えさせられました。
参加者の皆様は一同に、「今日聞いた話を一人でも多くの方に伝えたい・・・。」とおっしゃっておられました。わたしもその一人です。
最後に主催者「こころをつなぐ虹プロジェクト」事務局・佐伯隆快師(倉敷市・一心念誦堂住職)の挨拶。
「みんなみかた会議」
これからも続けていきますので、ぜひ多くの方のご参加をお願いしたいと思います。
合掌