令和5年 新年のご挨拶

 新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 令和5年が始まりました。令和もはや5年目!ということに驚いてしまいますが、あっという間に過ぎてしまう時間の中で、あらためて今をしっかりと生きていこうと心致す次第でございます。

 さて昨年は、コロナ禍においても玉佛堂の落慶、樂陽廟のリフォーム、境内トイレのバリアフリー化など、境内ハード面の整備が進み、同時に恒例法会および教化活動、文化活動、社会福祉活動、さらには長男龍山房、次男龍城房の得度式、護身法伝授の開莚といったお寺のソフト面も充実した一年でありました。檀信徒皆様には、あらためて当山へのご理解とご協力に感謝を申し上げます。

 今年は、干支が「癸卯」ということで、お寺だけでなく檀信徒皆様がうさぎのようにピョ~ンと跳躍する一年となってほしいと願うところでございますが、そのためには先ず一つに「平和」、二つに「コロナ禍の収束」、三つに「自然との調和」というキーワードをあげたいと思います。

 以下、当ブログにしては珍しく長文ですが、お時間ある方にはお付き合いください。

 まず「平和」についてですが、現在進行形のウクライナとロシアの有事、これがなんとか改善してほしいですし、同時に我が国を含む東アジアに漂う不穏な空気が、どうか暴走しないようにと願うことひたすらであります。戦争というのは、それがたとえ一部の地域に限ったものに見えたとしても、それによって世界は不安定になり、様々に負の余波を広げてしまいます。世界が平和であればこそ、私たちの日常はつつがないものとなりえます。

 ところで「平和」ということを思うとき、私はいつも「成仏」を思い起こします。「成仏」というのはまさに全仏教徒の目標といっても良いわけですが、その手段は?というと真言宗では身口意(しんくい)の三密行(さんみつぎょう)ということになります。つまりは「言葉」、「行動」、「心(想い)」のそれぞれを仏の如くにすること。もし自らの言葉、行動、そして心(想い)の三つを仏の如くにすることができれば、それはもうほぼ仏と同体であり、真言宗的には「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」ということであります。そしてここで重要なのが、成仏という目標とそれを達成するための手段は同じであるということです(成仏はゴールであるとともにスタートなのです)。

 「平和」という目標も実に同様で、平和を達成するためには平和を実践するほかに方法はありません。即ち政治、外交、経済など、官民を問わず様々な努力の積み重ねが必要であり、そしてそれらを忍耐強く、平和的に進めていくことです。もちろん現状では軍事力も重要な要素でありますが、少なくとも「平和のための戦争」などという戯論(けろん)には惑わされないようにしないといけません。

 二つ目は「コロナ禍の収束」です。これもまさに人類共通の願いでありましょう。「withコロナ」と言われて久しいですが、「収束」といってもコロナウイルス自体が終息することはもはや無いわけでして、いかにコロナと付き合っていくのか?どのタイミングでどの程度を元の状態に戻していくか?ということを見極めていくことが重要なのだろうと思います。

 若くて元気な方の間ではすでに「インフルエンザ並み」ととらえている人も多くなっているようですが、高齢者や疾患のある人にとっては未だ脅威であることに変わりはありません。実際に当山檀徒の方にもコロナによって亡くなられた方がおられますし、いわば、「大丈夫な人にとっては大丈夫。危険な人にとっては危険。」というのが現状なのだろうと思います。

 まだしばらくは安易な判断はできない状況が続きますが、それでも着実に少しずつ前には進んでいて、あともうちょっとで出口に到達できるのではないかという期待感も膨らんでいます。どうか今年のどこかで、皆さんのマスクが要らなくなり、人が人に普通に会える、大勢が一緒に楽しめる、そんな笑顔あふれる社会が戻ってきてほしいと願っております。

 三つ目は「自然との調和」です。これはもちろん第一に地球環境を守るということでもありますが、仏教者としては私たちの意識面においても自然への回帰みたいなものが必要だと考えています。

 そもそも自然というのは、我々人間の手には負えないものであり、私たちの思い通りにはなってくれないものであります。だからこそ八百万の神を祀る我が国では、古来より常に畏怖の念をもって自然に接してきました。ところが現代を生きる我々は、自然をも人間がコントロールできると心のどこかで勘違いしているかのように思えます。

 考えてみますと、我々が住んでいる街はコンクリート製のビルにアスファルト製の道路。とにかく人間が管理しやすいように街全体が人工物で覆われ、管理の行き届かない自然はなるべく排除しようという力学が働いています。そうしておけば、便利だし安全であると。人工物というのは人間の意識が作り出したものですから、そのような人工的な環境下で日常生活を送っていれば、なんでも意識によって解決できると感じてしまうのも当然のことなのかもしれません。

 しかしながら、言うまでもなく我々人間自体が自然の産物であり、まさに自然そのもののはずです。心臓を動かすのも呼吸をするのもおなかがすくのも、別に意識的にやっているわけではありませんし、そもそもこの世に生まれて来たこと自体、自分の意志ではありません。「生きる」というのは本来そういうことであって、私たちの意識の産物ではないのです。

 自然に触れていればそれがよくわかります。私は坊主ですので境内を綺麗にしようと草を取ったり木を剪定したりするわけですが、いくら頑張ってもまた草は生え、木は枝を伸ばします。全くこっちの思い通りにはなってくれないのが自然であって、また自然はそれを意識的にやっているわけでもありません。草を取る、木を剪定するというのは、我々人間の意識が一方的にその方が美しいと評価しているだけのことであって、自然の側からするとただあるがままにあるのみで、何ら問題もないわけです。自然には評価という概念自体がないのですから当たり前と言えば当たり前なわけですが、ここで気づくべきことは、我々人間だって本来はそういうものだということです。

 しかし我々には意識があります。意識は良くも悪くも生きることに対して意味や価値を問い、優劣や善悪といった評価を与えます。もちろん意識が様々に評価を与えるからこそ、危険を察知したり、安全を確保したりすることが可能となるわけで、評価すること自体は生きていく上で必要不可欠なものです。特に社会生活をする上では、勉強も仕事も評価しないというわけにはいかないですし、評価があるからこそ頑張ろうというモチベーションにつながったり、人間社会の秩序が保たれたりもします。

 ただここで申し上げたいのは、自然に評価という概念がないように、我々人間も評価のしすぎには注意した方が良いのではないかということです。そして、現代はまさに評価過剰でありましょう。テレビやインターネットではありとあらゆる事柄に対して様々な批評がなされ、その批評に対しても我々一般視聴者がさらに批評を上乗せするという状況です。「炎上」という言葉も定着しましたが、まるで日本国民全体が評論家のような状態で、批判の応酬合戦が繰り広げられています。私にはそれがちょっと異様に思えてならないのですが、皆さんはどのように感じていますでしょうか。

 また、飲食店、学校、病院、さらには神社やお寺までもが、インターネット上に星の数がいくつ付いているかという形で評価され、SNSでは個人のプライベートなことにまで「いいね!」という評価の数が付せられています。それら自体に善悪があるというわけではないですが、やはりちょっと評価のやりすぎであるように感じます。少なくとも評価という概念がない自然からすると、あまりに乖離した状態、すなわち自然ではない=不自然であると言うしかありません。

 不自然な状態というのは、本来は自然そのものである人間にとっても良くないのだろうと思います。現代がかかえる自己肯定感の低下、ひきこもり、鬱などのメンタル面の問題、さらには長引く不況、過疎、少子化などの問題も、根本的な原因はそこにあるのではないかとさえ個人的には感じています。皆さんにもどうか気を付けて下さい。評価は必要最低限のことに対してのみあれば良いはずで、あとはなるべく自然体でいきましょう。

 そしてそのためには、人工的(意識的)な環境ばかりを生きるのではなく、自然を体感することが大切です。風に吹かれる。日光を浴びる。泥だらけになれとまでは言いませんが、たまには土を触ったり、砂埃にまみれたり、雨にぬれたりも良いでしょう。そしてそれを良いとか悪いとか評価するのではなく、自然とはそういうものだと受け入れることです。突拍子もないようなことかと思われるかもしれませんが、私は結構まじめにそう思っています。まぁ、その意味ではちょうど良いのがお寺の境内なのかもしれません。ほどよく自然と人工が交じり合っていて、心が意識的な日常から離れ、多少なりとも「ありのままに」を体感することができます。

 以上が今年のキーワードの三つ目にあげた「自然との調和」の理由です。不自然な状態が過剰に続くと、やはり予期せぬ不具合が起こってしまうのが世の常であります。密教的にいうと、智(意識)を扱う金剛界曼荼羅と、理(自然)を扱う胎蔵曼荼羅の両部がバランスよく保たれるよう精進しましょうということになろうかと存じます。

 最後に、本年は宗祖弘法大師ご誕生1250年という記念の年となります。誕生月の6月には全国各地の真言宗寺院で様々な祝事が計画されていますが、ここ岡山でも同じく準備を進めております。また追ってお知らせいたしますが、どうか多くの皆様と大師ご誕生を寿ぐ時間を過ごせたらと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。